第6章

腹の奥がきゅっと痛んだ。大島莉理は心臓を掴まれたようになり、あれこれ考える暇もなく車を止めて病院へ向かった。

まだ、この子を産むかどうかも決めていないのに――もう心配している自分がいる。

嫌な兆しだ。

病院。

三村加奈子に診てもらうと、彼女は眉間に皺を寄せたまま言った。

「もともと身体が弱いんだから、あちこち走り回っちゃだめ。子どものためって言う前に、まず自分の身体を大事にしなさい」

「……私……」

今日は本当に目が回るほど忙しくて、食事もろくに取れていなかった。そりゃ、身体も抗議する。

加奈子は莉理を自分の休憩室へ連れていき、食べ物と着替えまで買ってきてくれた。

「寒くなってきたんだから、外に出るなら上着。風邪ひいたら、薬だって簡単に飲めないんだからね」

「好きそうなお弁当も買ってきた。とりあえず食べな。ここ、普段は誰も来ないから安心して休んでて。私は手術があるから、先に行く。戻ったらまた顔出す」

三村加奈子は相変わらず嵐みたいで、来るのも早ければ去るのも早い。

ドアが閉まった瞬間、足音は遠ざかった。

莉理は数口だけ胃に入れ、汗と湿気で肌がべたつくのが気になってシャワーを浴びることにした。加奈子の買ってきた袋はやけに揃っていて、上も下も、下着まで一式入っている。

抱えて浴室へ。

洗い終え、着ようとしたところで白いブラジャーが見当たらない。床に落ちたのかもしれない。上だけ先に着てしまうか、それとも何かで隠して取りに出るか――迷った、そのとき。

外で、ドアの開く音がした。

「加奈子?」

浴室の扉越しに声をかけると、外の足音がぴたりと止まった。

少し寒くなってきて、莉理は言う。

「加奈子、下着だけ渡して。さっき洗ったら、どこかに落ちちゃったみたいで」

沈黙がしばらく続き、足音がゆっくり近づく。

「ありがと」

差し出された白い下着を慌てて受け取り、急いで身につける。ホックを留めた瞬間――背筋がひやりとした。

違う。

指は骨張って長く、肌は白い。爪は整えられ、手の甲の血管の浮き方まで妙に美しい。モデルの手みたいだ。

それに、加奈子の手よりひと回り大きい。

がらり、と浴室のドアが引かれた。

髪から水滴を落としたままの大島莉理は、不意打ちのように田中辰哉と目が合った。

彼は入口に立ち、革靴をタイルにしっかりと据えたまま一歩も近づかない。長い影。整った輪郭。琥珀色の瞳だけが、深く冷たい。

田中尚哉が火山なら、傲慢で熱く、気分のままに噴き上がる。

田中辰哉は、万年雪の頂。理性だけで造られた氷の山。弱点が見当たらず、崩れる未来さえ想像しづらい。

「……兄貴」

彼を見るたび、莉理は頭のどこかがちぐはぐになる。

こんな男と、自分は――一夜を共にしたことがある。

七年前。

あれは、ぐちゃぐちゃの夜だった。

莉理の家は裕福でも貧乏でもない、中の中。両親はできる限りのことをしてくれたし、莉理も幼い頃から自分で稼ぐ癖がついていた。高校から大学まで、ずっとバイト漬けだった。

コンビニ、販売、ショッピングモール、カフェ、バー……何でもやった。

その夜はバーでのバイト最終日だった。なのに、運が悪くやらかしたのは同僚で、尻ぬぐいは莉理。しつこい客に絡まれ、断れずに数杯飲まされた。しかも強い酒。

ぐらぐらになったまま、気づけばどこかの部屋へ入っていた。

あとは、よく覚えていない。

覚えているのは、翌朝。目が覚めた瞬間、世界が崩れたこと。

全裸。肌にはキスマークが散っていて、腰は重く痛い。殴られたみたいなだるさ。隣の男は上半身裸で、胸元には引っかき傷がいくつも残っていた。寝顔は端正で、妙に落ち着いていて――昨夜、どれほど消耗したのかが嫌でも伝わった。

莉理はまともに見られなかった。自分が酔って、たぶん……相手をからかった、のだと思う。

二十年そこそこ生きてきて、真面目で、親を心配させないよう酒も避けてきたのに。自分があそこまで弱いなんて、そのとき初めて知った。

逃げるように部屋を出た。

相手がどう思ったかなんて、考える余裕はない。どうせ男は損しない。自分だって初めてだったのに。

すぐに記憶の棚へ押し込んだ――田中尚哉と出会うまでは。

恋をして、付き合って、そして結婚して。

初めて田中辰哉に会ったとき、莉理は頭の中が真っ白になった。

まさか、あの夜の男が……未来の夫の兄貴だなんて。

けれど救いだったのは、田中辰哉がその件を覚えていないらしいことだ。彼の視線は終始、吟味するように冷たく、距離があった。むしろ莉理と尚哉の関係自体に否定的で――。

きっと、金目当ての女に見えていたのだろう。

回想から引き戻され、莉理は反射的に彼の手を見る。

やっぱり、長くて綺麗。

気まずさが限界を越えると、変に落ち着いてしまうのか。莉理は声を整えた。

「兄貴、どうしてここに?」

田中辰哉の視線が、莉理の青白い頬をなぞる。濡れた髪から滴が落ち、胸元の布をじわりと濃くしていく。

隠してはいる。けれど、見苦しい。

彼はソファの上に置かれていた上着を取り、無造作に莉理へ投げた。

視界が一瞬、黒くなる。莉理は慌てて引き下ろし、胸元の惨状に気づいて唇を噛んだ。

「具合が悪いのか」

問われると、背筋が伸びる。年は大差ないはずなのに、冷たい威圧がある。逆らう言葉が喉で詰まる。

彼の前で嘘をつくのは、妙に難しい。

だから莉理は正直に言った。

「……はい。ちょっと」

「田中尚哉は?」

その一言で、隠しているはずの秘密を見透かされた気がした。莉理は少し遅れて視線を逸らす。

「忙しくて」

「忙しくて、妻の面倒も見られないのか」

皮肉めいた言葉なのに、表情は微動だにしない。

尚哉を刺しているのか、それとも――恋に浮かれていた自分を笑っているのか。分からないし、考えるのも疲れる。莉理は作り笑いを浮かべて訊いた。

「兄貴こそ、どうして病院に? 体調でも?」

田中辰哉は、じっと莉理を見た。

理由のない圧に胸がざわつく。

「笑いたくないなら、無理に笑うな。見ていて痛々しい」

莉理の笑みが固まる。いったん俯いて、息を整え、顔を上げたときには少しだけ柔らかく見える笑みに作り直した。

「……兄貴、誤解です」

田中辰哉は目を逸らした。半端な笑顔を見たくない、とでも言うように。

そこへ助手が小走りで駆け込んでくる。

「田中社長。大渡さんが屋上で、責任を取らないなら飛び降りるって騒いでます。母子ともに、って……」

田中辰哉は冷淡に言い切った。

「伝えろ。ここでやるな。人の場所を汚すな。止められないなら、あとで処理しろ」

助手は慣れた様子で頷く。

「承知しました」

莉理は思わず視線を落とし、口の中で舌打ちする。

田中父は筋金入りの女好きだ。何人囲っているのかも分からない。大渡という女も、その一人に過ぎない。

尚哉の母親も同じだ。

田中辰哉の母親だけが、名実ともに田中夫人。けれど、それで救われるわけじゃない。結局は裏切られた、哀れな女性だ。

尚哉もきっと血を継いだのだろう。真心なんてどこにもなく、誓いだって七年で終わる。

「俺が冷酷だと思ったか」

不意に刺すような声が落ちる。莉理は息を呑み、田中辰哉の暗い眼差しを受けて慌てて首を振った。

「思ってません」

「奴が抱いた女は千はいかなくても百はいる。全員に責任を取ってたら、屋敷が何棟あっても足りない」

莉理は評価できる立場じゃない。黙るしかなかった。

田中辰哉は昔から隠し子を嫌っていた。恋に目が曇っていた頃は尚哉が可哀想だと思っていたけれど、今なら分かる。いちばん割を食ってきたのは、むしろこの人のほうだ。

噂では、田中父と違って田中辰哉の周りに女の影はない。助手は男ばかり。家で飼っている犬までオスだと聞く。

ただ一つだけ、噂の「高嶺の花」がいる。

彼はずっと、執念深いほど探し続けているらしい。

気にならないわけがない。莉理は喉の奥で小さく息を吞んだ。

いったい、どんな女の子なら――こんな男を手懐けられるのだろう。

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